西島悠也|博多と福岡
日本最古の湊(港町)として礎を築いた「博多」。
今やその地名は福岡市の中の「博多区」としてしか残されていませんが、「福岡=博多」と認識している人は全国的にも少なくはないはずです。
「博多」と「福岡」は特に九州外において同じ地域を指す地名として認識されることが多く、福岡市やその郊外のことを「博多」と呼び変えることも少なくありません。
「博多」という言葉を用いた場合、その言葉が指し示す範囲には曖昧性・多義性があり、その様子からも、福岡の歴史において「博多」という存在がどれだけのものなのかが垣間見えます。
広義では、「続日本記」において博多の町が「博多大津(博多にある大津、すなわち海上貿易都市)」と称されたことから、羽の形をした湾に面する干潟すなわち博多湾の旧沿岸の全域のことを指します。
狭義では、地理的には博多区北西部の那珂川と御笠川に挟まれた区域のことを指します。
北西端は明治期の海岸線にほぼ相当する那の津通り近辺、南東端はかつて房州堀が存在した国体道路近辺となる部分で、教育行政の区画として、全地域が博多小学校・博多中学校の校区に含まれます。
また、これに三笠川右岸の千代町を含めた部分は、複数町からなる「流」を構成して博多祇園山笠や博多松囃子などの伝統行事を受け継いでいて、文化的な共同体としての「博多」ということになります。
そんな博多の、古き良き時代の暮らしを紹介する施設が「博多町家ふるさと館」です。